たぶん5年くらい前、イチローと元日ハムの稲葉が対談している映像を偶然Youtubeで観返すことがあった。おぼろげな記憶では、当時テレビて観ていたと思う。今あらためて観ると当時の200倍は感動した。
対談でイチローが語っていたこと「自分のことは他人に決めてもらう」。真理だと思う。
僕の現状なんて僕が説明しなくていいし、他人が決めてくれたらいいんですよ。僕が元気かどうかなんて観ているひとが決めればいいし、僕が「ハイ、元気にやってます」ってバカじゃないですか。「ぼく今日最高です」とか「良い感じでスイングできてます」とかダサって最近特に思うんですよね。
稲葉 身体的にどう?そんなに変わらない? イチロー まあ、僕が(自分から)言いたくないっていうのは先ほどから言ってますけど、僕の動きをみて他人が決めてくれたら良いと思うんです。
最近、自己主張強めなひとが本当に多い気がして(自分の周りに)。自分のことは自分にしか分からなくて、自分の心や思考の深層に潜っていけば「ほんとうの自分」が見つかるという幻想に囚われている人が多い気がして。
最近読んだ、松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)に、「関係」という章があり、その中に<関係が先か?行為が先か?>という項があった。
自分/相手の話す言葉や話題、表情などを手がかりにしながら、ふたりの「関係」や互いの「気持ち」を推し量っていく(中略)このことを、社会学者のアーヴィング・ゴッフマンは、人はコミュニケーションのなかで状況の定義を投企しあう、と表現した。ふたりがどんな関係なのか、そのありうる選択肢のなかから、ある定義を相手に投げかけ、それが受け入れられるか、あるいは相手から投げかけられた定義でしっくりくるのか、つねにお互いに調整し合っているのだ。
「自分」なんていうものの定義は曖昧で、相手との関係や行為の繰り返しで形づくられていくものだ。しかも、相手が同じでもそのときの状況や文脈によって、「自分」は流動的に変わっていく。その当たり前に気づかずに、「自分はこうだ」とか「あなたはこうだ」ってすぐに型にはめていくひとたちは残念だ。
常に、相手に投げかけてフィードバックされる「自分」を確認していけばいいだけだと思う。去年の今頃もなんとなく、同じようなことを考えていたみたい。