たとえば会議中、大きなあくびをすることは社会人として憚るべき行為だ。大切な会議のなかでは、なんとかあくびを噛み殺そうとするし、他人のあくびを見かけると快くは思わない。
そんな、自分の中にあるあくびの常識を覆す言葉に出会った。忘れないうちにメモしておかなければと思ったので、読書を切り上げてこれを書きはじめている。
暖炉のそばで犬があくびをすると、それが、あれこれ考えるのは明日にしなさい、という猟師たちへの忠告となる。なんの造作も気取りもなく伸びをするこの生命の力は、見ていて美しく、つい真似をしたくなる。居合わせたみんなが伸びをし、あくびをしないわけにはいかず、それが眠りの前奏曲となる。あくびは疲れのしるしではなく、内臓に深々と空気を入れることによって、注意と論争にのめりこむ精神に別れを告げる動作なのだ。この精神的な転換によって示されるのは、体という自然が生きることに満足し、考えることに倦き倦きしているということだ。
あくびは緊張や注意にたいする生命の復讐であり、健康の回復であって、あくびが伝染するのは、あくびがまじめさの放棄だからであり、のんきさを大っぴらに宣伝するようなものだからだ。それは、整列の解散を告げる合図のように、みんなの待ちうける合図である。そうやって気楽になるのを拒否する人などいるはずがなく、あくびとともにまじめな気分は消えていく。
アランというフランスの哲学者が、93篇のコラムをまとめた『幸福論』のなかで書いた「あくびの術」という短文だ。
緊張、苛立ち、悩み、不安、恐怖、憎悪、悲しみ、苦しみなど無意識でも意識しても、ひとが心のうちに抱いてしまう不幸の源と対照的に描かれたあくび。
心身の安定とゆとりが幸福の根源であり、それを取り戻すためにひとは体を伸ばしたりあくびをする。あくびは不幸への生命の復讐であり幸福を取り戻すために欠かせない行為で、むしろ忌むべきは不要な緊張や退屈や屈託を生み出すすべてのことなのだ。
アランの言葉、いい出会いだった。